2021年


ーーーー4/6−−−− 適正体重に至る


 
毎朝起床時に体重を量り、ノートに記録している。一冊目のノートが2012年の5月7日から始まっているから、もう9年近く続いていることになる。ちなみにその日の体重は82.2Kgだった。

 昨年7月18日に人間ドックを受けたら、「あなたの適正体重は70Kgだから、そこまで落としなさい」と指導された。その日の朝の体重は81.2Kg。

 一念発起してダイエットを始め、およそ8ケ月経った今月29日の朝、ようやく目標の70.0Kgになった。ちなみに5Kg減ったのが2ヶ月後の9月11日、10Kg減ったのが5ヶ月後の12月15日だった。この3ヶ月間は、71Kg前後で推移して、なかなか最後の詰めが進まなかった。この先は、酒の量を減らさなければダメかなと思い、休肝日を設けたりもしたが、すぐに有名無実化した。そんな感じで、小幅に上下を繰り返してきたが、この日の朝、特に予想もしなかったけれど、体重計の数値はピタリと70.0を示した。

 ダイエットの手段は、食事制限と運動。食事の量は、カミさんが「エーっ」と言うほど減らした。好きだった甘い物(チョコレートや餅菓子など)は食べるのを止めた。運動は、秋の終わりまでは裏山登り、その後は自転車の3本ローラー台トレーニングを毎日行なった。特に厳しく制限をし、辛い思いをしたという印象は無い。酒は我慢できないが、食事は我慢できる体質なのだと思う。運動の方は、登山のための体力維持という目的で、若い頃から習慣化しているので、特に気負わずに実行できる。もっとも本番の登山は、最近さっぱりご無沙汰になっているが。

 まずは目標達成で一区切り付いた感じ。後はこの状態を維持できるよう、引き続き注意をしながら生活をして行こうと思う。

 ところで、体重が減ったことで、いくつかのメリットが自覚された。まず、当然だが体が軽くなり、動きが良くなった。以前なら億劫に感じてサボった事も、抵抗なくできるようになった。用事があって母屋と工房を行き来する際にも、以前ならなるべく一回にまとめて済ませたいと考えたものだが、今なら何度往復するのも厭わない。要するにフットワークが軽くなったのである。そのようにアクティブになると、物の見え方が変わり、色々な事に気付くようになる。そのため、気持ちの面でも前向きになり、意欲が出てくる。生活の細部にわたって新しいアイデアが浮かび、それを実行する楽しさを感じるようになった。心身両面で、一皮むけたような印象である。

 それと大きな余禄が一つ。スリムになったおかげで、服のサイズに余裕が出来たのである。ズボンのウエストなど、ブカブカになった。ベルトも最後の穴まで使うようになった。そのため、着られなくなっていた若い頃の服が、着られるようになったのである。もう捨てようかと言っていたブレザーやコートが何着もあるのだが、それらが復活することになった。これにはカミさんが大喜び。しかしその一方で、太っていた時に作った礼服は、ブカブカで合わなくなった。「みっともないから、新しく買ったら?」とカミさんは言う。「それでは今ある礼服が勿体無いではないか」と私が言ったら、「また太ったら着られるわよ」だと。




ーーー4/13−−− サラリーマンが少ない家系


 
母から時々聞かされていた話がある。それは、母方の家系は、サラリーマンがとても少ないと言うのである。母の父は兄弟姉妹が多かったので、母には叔父、叔母、いとこが大勢いた。それらの人々のほとんどが都会で生活をしていて、企業に勤めていてもおかしくはないはずなのに、どういうわけか自営やフリーランスが多かったのである。以前一族の人がその傾向に気付き、細かく調べてみたら、圧倒的にサラリーマンが少なくて、あらためて驚いたそうである。ちなみに母の父は企業経営者であった。

 母の母の家系は、芸術家、教育者や法曹関係者が多かったそうである。こちらの一族も、いわゆるサラリーマン指向ではない。

 一方、私の父は東京は京橋の生まれだが、父だけがサラリーマンで、ほかの兄弟3人は自営だった。

 私の姉は根っからのフリーランス、かく言う私も脱サラをして、30年前から自営である。

 田舎で代々農業をやっている家系の人などは、こんなことに関心が無いかも知れないが、私にとってはなんだか特別のルーツを感じる話である。





ーーー4/20−−− 特注のハイバックチェア


 
大学山岳部の先輩でノーベル賞学者の白川先生から突然メールを頂いたのは昨年の2月だった。お話は、椅子を作って欲しいとのこと。これまで使ってきた椅子が体に合わなくなってきたので、奥様の分と合わせて二脚を注文したいと。

 以前お会いした時に、先生は背もたれが高い椅子が好みだとおっしゃった(2005年12月27日の記事参照)。今回もそのようなご希望だった。3年ほど前から家具屋を回って探したが、欲しいものは見付からなかったそうである。居室でくつろぐという目的に見合った、背もたれが高い椅子というものは、国内の家具市場ではなかなか無いようである。そこで、名のある家具メーカーに出向いて、特注で製作できないかと訊ねたが、断られた。最後に行った岐阜県のメーカーは、「検討させてほしい」といったんは乗りかかったが、数日後に電話が来てやはり断られた。どこも引き受けてくれない状況で、大竹工房を思い出したとのこと。

 奥様のお話によると、知り合いの建築家で、自ら椅子の設計などもする人から、こんな話を聞いたことがあると。自分の好みに合った椅子を、注文で作らせようとしても、なかなか思い通りのものは手に入らない。だから、家具屋を回って、実際に見て座って気に入ったものを見付けるしかない、と言うのである。そういう考え方は、欧米では一般的であると、私も何かで読んだことがある。欧米のユーザーは、何年もかけて、根気良く椅子屋を回るそうである。あちらではアンティークなども出回っているから、探すのが楽しいということもあるだろう。

 奥様は、3年間探しても好みに合う椅子が見付からなかった経緯からして、大竹工房に製作を依頼したところで思い通りの物が手に入るだろうか、との気持ちも浮かんだとか。しかし先生は「大竹くんならやってくれるだろう」とおっしゃったそうである。有難いことである。

 背もたれが高く、頭部まで支えるような椅子(それをハイバックチェアと呼ぶことにする)は、私のレパートリーには無かった。奥様のお話では、背もたれはクッションにして欲しいとのことだった。これも私のレパートリーには無い。なかなか難しいプロジェクトになると予感された。

 まず、座り心地確認のための「お試し椅子」を作った。これは、背もたれの角度や座面の角度を調整できるようにした、実験的な椅子である。そのお試し椅子をお預けして、しばらく使って頂き、適正な角度を決めて貰うことにした。私自身、お試し椅子に座り、角度を変えて試してみたら、いろいろな事に気が付いた。ハイバックチェアというものの概念が、少しずつ理解できたような気がした。

 お試し椅子で角度が決まったとの連絡を受けて、お宅へ出向き、今度は背もたれの形状を検討した。お試し椅子では、ある想定のもとに背もたれの曲線を決めたのだが、それは私の感覚で決めたものであり、ご夫妻に合うとは限らない。背もたれを上下に移動したり、タオルを折りたたんで当てがったりしながら、フィットする形状を決めた。

 座り心地を左右するデータが出揃ったところで、試作品の製作に移った。私のレパートリーにある「風神」、「雷神」をベースにし、それに加えてクッションの背もたれを構造体として使うことにした。すなわち、フレームに合板を張り付けて下地とし、それにクッションを張るのだが、フレーム自体に強度を持たせ、椅子の後脚に固定すると言うアイデアである。こう書けば簡単な事に思えるかもしれないが、新たに椅子を設計すると言うのが大変な作業であることは、これまで何度も経験したのと同じであった。

 試作品が出来上がり、お宅へ持参して座って頂いた。座り心地に若干の調整を要したが、形状も含めご満足のご様子で、ゴーサインを頂けた。

 いよいよ本番の製作となった。材木を新たに調達しなければならないと覚悟をしていたが、念のため材木置き場を調べて見たら、10年前に購入したミズナラの角材が、ちょうど必要な量で見付かった。その当時付き合いのあった(その後店仕舞いをした)、新木場の材木店で購入したもので、品質が優良であることは間違いなし。これはラッキーだった。製作は順調に進み、椅子本体とクッションの下地が完成した。後はクッションに張る布地を選んで頂き、張り屋さんに依頼してクッションが出来上がった。クッションを本体に組み込んでみたら、とても良い感じになった。思いがけないという言葉が出るくらい、木部とクッションのマッチングが絶妙だった。

 先週納品に伺った。ご夫妻は、大変気に入られたご様子だった。座り心地も良いし、見た目にも美しく、部屋の雰囲気にも合って、素晴らしいとの感想を何度も口にされた。それを聞いて、私は幸せだった。長丁場のプロジェクトだった。お話を頂いてから14ヶ月経っていた。こんな長くかかったのは、コロナ禍で移動に制限があったからである。ともあれ、長い旅路のゴールにたどり着いた安堵感はひとしおだった。

 私は、通常は特注の椅子の製作はお受けしない。特定の個人のニーズに合わせて椅子を設計製作するというのは、採算が取れないからである。しかし今回は、お引き受けした。山岳部の先輩が気にかけてくれたということ、またその方が世界的なVIPであられるという事が、特別扱いに繋がったのは間違いない。その一方で、仕事上の興味でトライをする意欲が沸いたのも事実である。それは木工家具作家の勘とも言うべきものであろうか。新しい世界が開けそうな気がしたのである。結果としてその判断は正しかったと思う。いろいろ新しい事に挑戦でき、勉強になった。そしてハイバックチェアの他に、ラウンジチェアという新作のヒントも掴んだ。予想以上の収穫が得られたのである。




ーーー4/27−−− 剣岳<点の記>


 
新田次郎の小説「剣岳<点の記>」を読んだ。 国土地理院の前身である陸地測量部の測量隊が、それまで未踏と言われていた剣岳の登山に挑み、大変な苦労の挙句に登頂に成功したが、その頂上で古代のものとおぼしき剣と錫杖の頭を発見した、という実話に基づく小説である。

 読んでいて、ストーリーとは別に、胸に迫るものがあった。剣岳は私の登山遍歴のなかで、格別に重要な位置を占めている。と言うのは、学生時代の山岳部の夏山合宿は、毎年剣岳を舞台に行われたからである。山中にテントを張り、そこをベースにして10日間ほど、様々なルートで雪渓を登り、尾根を登り、岩壁登攀を行った。その当時使っていた地図を見ると、トレースしたルートを記した赤線が、網の目のように描かれている。剣岳の懐深く入り、隅から隅まで踏破したのである。多感な青春時代に、いささか度が過ぎたくらいの強烈な体験をした。その剣岳周辺を舞台にした小説である。出てくる地名や山の名が、一つ一つ懐かしく、50年近くの年月を飛び越えて、思い出が蘇った。

 さて、ストーリーに関して、私が感じたことを述べたいと思うが、登山に関する少々マニアックな話になるので、興味が無い方はスルーして頂きたい。

 測量隊は、まず西側の早月尾根から山頂を目指すが、上部の岩場に阻まれて退却した。次に南側の別山尾根を試みるも、やはり岩場がきつくて断念した。そして最後に、東側の長次郎谷の雪渓を登り詰め、長次郎のコルから南下して山頂に至った。長次郎のコルから山頂までは、僅かな登りである。なお、これらの地名は、その後付けられたものであり、その当時はまだ無かったようである。ちなみに長次郎というのは人の名で、測量隊を導いた地元の山案内人宇治長次郎の名である。

 当時は、山頂周辺の岩場は手付かずの自然で、現在のような鎖や梯子はもちろん無い。また、岩壁登攀の技術も装備も無い。となれば、この長次郎雪渓のルートが、その当時もっとも確率の高い登頂ルートであったことは、容易に想像できる。雪渓を登ることで、山頂近くまで達することができるからである。もっとも、急な雪渓を安全に上り下りできる技量を持った人員に限定されることではあるが。

 何故山案内人は最初からこのルートを進言しなかったのだろう、と考えた。その理由は、剣岳周辺にはこのルートの全貌が見られる場所が無いからだと思われる。立山別山は、剣岳の東南面を展望するのに格好のポイントだが、長次郎雪渓は源次郎尾根に遮られて見えない。また、剣沢を下って長次郎谷の出合まで行ったとしても、谷が左にカーブしているので、雪渓の上部は見えない。周囲の状況を見れば、雪渓の上部は岩壁に突き当たり、行く手を阻まれると予想しても、おかしくはない。しかし実際は、夏の初めのまだ残雪が多い時期なら、コルまで雪を踏んでたどり着けるのである。

 後立山連峰の針ノ木岳辺りから剣岳を見れば、東面の雪渓の様子が良く分かる。長次郎雪渓がコルまで続いており、コルから山頂までは比較的近いことが理解される。コルからの稜線の登り始めが急だが、極端に難しい岩場では無い。それは遠方から見ただけでは分からないが、頂上へのアプローチの短さから見れば、チャレンジする価値は十分にあると結論付けられるだろう。つまり、別の角度から見れば、このルートが一番確率が高いと判断されたはずである。

 とまあ、こんなことを考えたのだが、そんなことは既に全てが整っている現代に生きる人間の勝手な妄想である。

 宇治長次郎ら地元の山案内人は、立山を対象とした信仰登山のガイドであり、立山の西山麓に住んでいた。彼らが後立山連峰まで出向いて、これまで見たことが無い角度から剣岳を望見する機会は、おそらく無かっただろう。彼らのテリトリーからは遠く離れているからである。だから山案内人たちが、地元の山とは言いながら、剣岳の登山ルートに関して、多面的な情報を持っていなかったとしても、無理は無いのである。

 一方、小説のストーリーによると、測量隊が当時発足したばかりの山岳会(日本山岳会)と初登頂を競ったとの経緯もあったらしい。山岳会であれば、ローカルな山案内集団と比べて、より広範囲な山岳情報には長けているはずだ。しかし、発足当初ということでそれもまだ行き届かなかったのか。

 さて、手前勝手な妄想はこの辺にして、「剣岳<点の記>」の感想を述べるならば、剣岳登頂の苦労もさることながら、測量隊本来の仕事の大変さが、印象的だった。道も無い山に登り、重い資材を担ぎ上げ、三角点のやぐらを立て、標石埋め、それを次なる地点から測量をするという行為を繰り返す。一年の半分は、山の中で過ごす過酷な仕事だったらしい。生命の危険を伴うこともあるし、健康に障るような厳しい事態が続くこともある。そのような仕事に携わった人たちのおかげで、現代の登山者が使っている地形図も出来上がった。赤線で剣岳周辺が埋め尽くされたような私の五万分の一地形図「立山」も、彼らの尋常とは思えない努力の産物なのである。